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地元の人が語る歴史と暮らし

開拓者の日々の暮らし


   日時 :7月7日(水) 7:00 pm 〜 9:00 pm
   場所 :大泉総合会館
   話し手:小宮山 福一氏(大泉村在住)

大泉村の開拓の生き証人のような小宮山福一さん...
83歳のご高齢にもかかわらず苦難の歴史を噛み締めるように 淡々と、話して下さいました。
参加者から活発な質問があり有意義な時間を過ごす事が出来ました。

小宮山さんのお話 熱心に聴く参加者

小宮山福一さんのお話は、まず、生活になくてはならない水の話から始まりました。
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入植地付近に湧水や川はあっても、水利権が他の地区(高根町)に設定されていたので、 水の確保が大変だった。
小海線の大泉駅はあったが、村の中心から遠く利用されることもなかったので、 入植当時は、馬の通る幅1mほどの道しかなかった。
そこで、まず駅前に100mほど道をつくった。しかし、その道も雨が降れば水路になって しまい、その度に大変苦労した。そのため、その後県道に昇格し県の管理になったときには、 大変嬉しかった。
また、開拓団が生活していくために、学校や、診療所も、みんなでお金を出し合い、 勤労奉仕で作った・・・など、何もないところから、生きていくために、生活していくために、 社会に必要なものを一歩づつ積み上げていったという気の遠くなるような厳しい開拓であった。
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その場を体験してきた人ならではのお話でした。
小宮山さん自身、大開(おおびらき)地区に入植する前の戦前、20才の頃、 野辺山や川上村で高原野菜作りを手伝い、栽培方法を学んで作ったら評判が良く、 特に静岡の業者から引き合いがきて高く売れ、家の借金返済に助かった...
と昔が懐かしそうに笑顔で話して下さいました。


《...お話の詳細...》

小海線開通と開拓の始まり■
大泉村の大開開拓の歴史は昭和8年小海線の小淵沢から清里までの開通から始まった。
大開開墾の募集をしたが多く集まらず南アルプスや芦安あたりから入植した15−6人の人達は、 高冷地の農業に慣れず、2−3年でこの地を離れていった。長野からの入植者が数名は残った。
電気はなく、夜には、カンテラで列車の通過を見送ったり、7−8年ごとに繰り返し発生する ヤスデとの戦いは大変だった。大泉村本村の当時の暮らしは40%−50%が茅葺の家で農耕の 馬と同居しており、木材・養蚕で生計をたてていた。開拓団が入った地は、馬の馬草場であった と、目を閉じて昔を思い出しながら淡々と語って下さいました。

戦後の開拓■
当時の駅前の様子は、小泉は昔からの集落があったが、大泉駅は集落から離れていて使われ なかったため、駅には馬が通るだけの道しかなかった。それで、まず駅前に道を100mほど 開拓団の手で造った。これが現在の駅前の道である。
戦後マッカーサーの号令で山梨県では富士山麓と八ヶ岳山麓が開拓団の入植地となった。
八ヶ岳の開拓は小淵沢街の篠尾、長坂町の小泉、大泉村の大開、泉原、帰農、石堂、油川の 井出原地区、高根町の清里で行われた。
大泉村にはおよそ110人強の家族が入植した。甲斐大泉駅の上160町歩の大開(オオビラキ) 開拓地区には東京から50名が入植してきたが、焼け野原を目にし厳寒の事を知り、2−3日後には 37名に減り開拓が始まった。
大泉駅前、大泉帰農や石堂には県の募集に応じて甲府から戦災被災者や引揚者が入植してきた。 入植後は緊急に学校の問題、病院の問題、それに道路づくりの問題があった。これらを一つづ、 開拓団の手で解決していかなければならなかった。
学校は、現在のロイヤルホテルの入り口に勤労奉仕で学校を作った。半複式学級で、5人の先生、 100人の生徒がいた。医療関係は、平井先生が甲府から来てくれて、看護婦は開拓団の中に 経験者がいたのでお願いした。道も自分たちがお金を出し合い勤労奉仕で造った。雨が降ると道が えぐられ、その修復が大変であった。昭和38年にやっと県道に編入され、昭和40年に簡易舗装 がされて、雨で流されなくなり一安心できた。また昭和40年に消防団にポンプ2台が備わった。

生活に欠かせない水の問題は最大の懸案事項だった。大泉村には6本の川や湧水があるが、 そのうち、開拓団の入った東側の3本は、高根町の地域への水利権が武田信玄の時代から決められて いたため、湧水近くに入植していながら、使うことができなかった。
大開では、その間、角風呂いくら、丸風呂いくらと年間に20円ほどの使用料を払うなど、 水の問題は大変大きかった。水利権をなかなか譲ってもらえず水の確保に大変苦労したが、 大開ではやっと昭和26年に、西井出組から箒沢の水利権が認められ、水道管2本を敷設できて、 これが現在に到っている。

昭和20年4月に大きな山火事があり長野県側からあり、小淵沢から大泉の川俣渓谷まで、 山林数千町歩が焼けていた。開拓だけでは生活が苦しいので、県に焼けた山林の植林を要請し、 それが認められて1000町歩の造林事業がスタートした。
この造林事業は、農業だけでは生きていけなかった開拓者にとっては、ありがたい収入で、 一日50〜60人を雇うことができた。戦後の物価の変動は激しかったので、日当30円が 翌年には60円になるなど、造林事業の予算建てが大変難しかった。成長の早いカラマツを中心に アカマツ、モミ、ツガが植林された。昭和37〜38年頃まで災害があったが、植林した木が育つ につれ、風も弱まり水の災害がなくなった。
ポールラッシュさんの清泉寮に大泉から電気を引っ張り大変喜ばれたこともあった。

小宮山さんは、戦前の20才頃、高原野菜を野辺山や川上村で手伝い栽培方法を学んで作ったら 評判が良く特に静岡の業者から引き合いがきて高く売れ家の借金返済に助かった。
と言った話しも昔が懐かしそうに笑顔で話して下さいました。

今後の問題■
昭和40年から土地を手放しても良くなり別荘ブームと重なって、農地の転用が進んだ。 これほど開発が進むと心配だ。
林業では輸入材が安い為、植林された木材が売れないので県有林の管理で困っている。
昔はシカ、キツネ、山ウサギしか出なかったのが、開発が進むにつれクマ、イノシシ、サルが でるようになり野菜に被害がでて困っている。開拓団にとって、山ウサギはありがたい食料で 捕り方を教えてあげた。鹿は、銃がないので獲れなかった。
また、農業の後継者が居ないことが心配だと話されました。


今でこそ世界に誇れ、多くの人が憧れる八ヶ岳の美しい景観の裏に、 入植者苦難の生活が歴史として息づき、現在の景観に育まれていることを 実感する内容でした。
小宮山さんの様な方々の血の滲むご苦労があって現在の八ヶ岳南麓が有る ことを考えると、私達の責任は重大です。
私達でこの素晴らしい八ヶ岳南麓を守っていかなければなりません。

(A.K)