ホーム > まちづくり > 地元の歴史と暮らし >

地元の人が語る歴史と暮らし

清里の開拓を語る 〜 ゼロからの出発


日時: 2005年7月6日(水) 
場所: 八ヶ岳興民館* (清里、八ヶ岳地区)  
       * 清里の開拓の父「安池興男」にちなんで興民館という
話し手: 根津吉夫氏(高根町清里在住)
       1938年(昭和13)13才の夏、小河内ダムで水没するため、家族で清里八ヶ岳地区に入植。
       開拓で始まった清里の歴史をつぶさに見てきた数少ない生き証人。水確保に尽力した。

---------------------------------

高原のリゾートとして有名な清里は、すべて昭和になってから、開拓で開かれたところですと、笑顔で、でもちょっぴり緊張気味に根津さんの話は始まりました。
駅から上は、ポールラッシュが高原実験農場として開いたKEEP。
駅から下は、昭和13年から戦後にかけ、何回かに分けて開拓が行われました。

その一つ、駅から下の、今の国道141号線沿いの「八ヶ岳地区」と呼ばれるところに、今日の話し手の根津さん一家は入植しました。昭和13年、吉夫さん13歳の時。東京の小河内ダム建設で住んでいた丹波山村が水没するため、28家族で新天地に挑んだのです。



石川達三の「日陰の村」に書かれているような経緯から、移転に伴う補償金はほんのわずかで、用意された土地は、簡単な伐採が行われただけで、根が残り、クマザサが生い茂った、火山灰による酸性土壌の不毛の地でした。
そこを、県から支給された鍬1本(他に何の援助もなかった)で始めた開墾は、まさに、ゼロからの出発でした。

厳しい寒さと水不足、酸性土壌に加え農業の経験不足(それまで奥多摩では林業に従事していたため農業の経験はあまりなかった)など、過酷な条件を、県から八ヶ岳開墾事務所長として赴任した安池興夫氏の献身的な指導と、開拓民の団結によって徐々に生活環境を整えていきました。

中でも、水問題は深刻で、毎日、水汲をしなければならなかった女性達の苦労は何十年も続きました。
東京都民の水確保のための小河内ダム建設で、移住をさせられた八ヶ岳地区の人たちが水の苦しみから解放されたのは、なんと50年もたった1980年代後半でした。

 現在、清里の住民は都会からの移住者も多く、私もその一人。美しい自然の中で快適な暮らしを享受していますが、その苦難の歴史はどれだけ知られているでしょうか。
開拓で始まった清里の歴史は、ぜひ、もっと多くの人に知っていただきたい物語でした。

 縄文の古くから人々が住んでいた八ヶ岳南麓の恵まれた他の地域と違い、格段に厳しい気象条件のもとで7〜80年前に開拓が始まった清里は、原野から開拓、雑穀畑、酪農地、観光地へと急速に激変していったことを改めて実感しました。

清里再開発計画もあるなかで、人が自然に寄り添って生きる厳しさの克服とその意義、そして現在の便利さの中での価値の取捨選択を問いかけられたようなお話でした。

「不可能はないですね」という根津さんの言葉に、想像を絶する苦労を乗り越え、前向きに生きてきた力強さを感じました。
 お話の途中でも終わってからでも参加者から活発な質問が出され、それに的確にお答えになる80歳の根津さんの楽しそうな笑顔が印象的でした。

(K.M, A.K)

《参考》
 清里開拓の歴史の資料はこちら(PDFファイル)をご覧ください。