地元の人が語る歴史と暮らし
佐久往還・長澤編 〜 長澤宿と数百年続く輿水家
日時: 2007年7月1日(日)
場所: 輿水家 (北杜市高根町長沢)
話し手: 輿水順彦 (当主)
澤谷滋子(長坂郷土資料館学芸員)
当日は多数の参加者があり、長澤宿の端に位置する道の駅・南きよさとに集合し、
早苗が美しい棚田を歩いて輿水家に向かいました。
先ず、当主順彦氏の案内で各部屋を見学してから、スライドを用いて
長沢宿の歴史的経緯や輿水家の由緒が語られました。
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長沢宿は甲州街道と中仙道を結ぶ佐久往還の甲州最後の宿場で、
現在の北杜市高根町長沢(窪長沢)の国道141号の長沢交差点の辺りに位置し、
若神子宿(須玉町)と信州平沢宿(長野県南牧村)の中間にあった。
江戸時代には、口留番所や問屋(伝馬)が置かれ、長澤宿は栄えていた。
口留番所とは関所のことで、この長沢では参詣人が多く通ったと記録にある。
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一方、問屋は、武田時代に人や荷物を運ぶために人馬を宿駅に配置しておく
伝馬制が整備されたというが、江戸時代も伝馬制は引き継がれ、それを取り扱う
場所を問屋(トイヤ、地元では「おとんやさん」)と言った。
輿水家はその問屋であった。
問屋は常に人馬を用意しておき、到着した馬の背の荷を一旦降ろし
新しい馬に乗せかえて送り出すなど、旅客・荷物・通信の運搬伝達の中継所の
役割をしていた。
問屋は物流の重要な役割を担っていたため、幕府から直接資金を借ることが
できるほどの特別な地位にあった。
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輿水家の歴史は大変古いが、戦国時代、武田信玄に仕え川中島合戦での功を成した
長沢八郎左衛門が「主膳」の名を授かった長沢主膳と関係あると言われている。
主膳は、長篠の戦で討死にしたが、その嫡子長沢佐左衛門は武田勝頼に使え、
新府城落城の折、長沢村に籠り定住したと伝えられる。
その後、姓を輿水に改め、やがて、輿水家は口止め番所と、今回お尋ねした
「おとんや(問屋)」に分かれたと思われる。
江戸時代初期の1645年には問屋治郎左右衛門と名乗っていた記述がある。
輿水家は代々、治郎左右衛門を名乗っていたが、現当主輿水順彦氏は
51代目に当たると言われている。
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現存する輿水家の母屋は、当主によると安政から慶応年間(今から140〜150年前)
に建てられたもので、奥座敷、座敷、中の間、居間、仏間、納戸、裏部屋など
10部屋からなる。この母屋は平屋作りで中央に玄関が設けられているのが特徴で、
その玄関からは、公の人や僧侶、親分など特別の人のみ入ることができた。
明治になってからは農業や養蚕のため土間に馬小屋や屋根裏に蚕室が設けられた。
(S.S)