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地元の人が語る歴史と暮らし

大泉谷戸の美しい集落〜その歴史と人々の暮らし


   日時: 2008年9月7日(日) 
   場所: 北杜市大泉町 総合会館2階 
   話し手: 谷戸 武雄さん(大泉町谷戸在住)

昔、先生をされていた谷戸さんは、私たちが聞きたいと質問していたことを、 わかりやすくお話ししてくださいました。
そして、「ここに住んでいるものとして、国立公園や国定公園に囲まれたこの大泉は 非常に景観がすばらしいと感じています。」というお話から、明治から昭和にかけての 谷戸の暮らしのお話が始まりました。下記はその主な点です。

お話の様子

●谷戸
谷戸という地名の記述は、900年ごろに甲州辺見筋谷戸村と記述があり、 水に恵まれたこの地は、谷をならして水田を作った。

●稲作
生活の基盤は米作りであったが、昔は稲も寒さに強い品種がなかったので、 季節風で苗代に氷が張り、苗作りが大変厳しかった。
そのため谷戸組では、季節風の北西風を減らすため、明治頃植林をした。
稲作には水温が低く、ため池は水の管理だけでなく水を温める目的があった。 しかし、冷害は非常に恐ろしく、昭和28年の冷害では1反で2俵しかとれなかった(通常7〜8俵)。

●裏作
裏作は大麦か小麦であった。 大泉支所から南では収穫できたので収入になった。しかし、麦を刈り取るとすぐ田植えがあり、 それは大変な重労働で、お百姓というのは大変な職業だと思った。 支所より北側は標高が高く裏作はできなかった。

●養蚕
藤村県令は養蚕を奨励し、この地域では明治中頃から養蚕が始まり、昭和15-16年頃がピーク。 平成6-7年頃、養蚕農家がゼロになった。養蚕は農家の貴重な現金収入であった。
長坂に繭の取引所が長坂駅開設(大正7年)に伴い開設したので、農家は繭を馬の背につけて、 長坂の市場へ運んだ。

●水と山津波
水道は、昭和36年から。谷戸では泉さん(湧水)から50m程下の湧水を96%利用している。
明治31年の山津波は、いま美しい家並み景観を作っている原谷戸を襲い、数十戸が流され、 多数の死亡者を出した。その時の惨状は、今でも言い伝えられている。
このとき流された家の人たちが、家の敷地面積などを話し合って建てたので、整然とした家並み になった。そして、家はそのころ盛んであった養蚕をやるための作りで建てられた。

(A.K)